「AFFAIR」
たとえ、これが恋だとしても・第Ⅰ部
突然の招待状 【1】
予想もしていなかったようなことが起こることを『青天の霹靂(セイテンノヘキレキ)』ともいう。
そして、この言葉こそ亜紀の身に起こったことを表現するのにピッタリの言葉はない。もっとも、本人はまだそのことを知る由もない。
ジリジリジリ――
その日も冬の冴え冴えとした朝の空気を破るように、目覚ましの音が響いていた。それにゆっくりと手を伸ばした亜紀は、どこかスッキリしない頭をゆっくりと動かしていた。
今の彼女は中学3年生。まもなくやってくる高校受験は、ある意味で人生の分岐点。それが分かっているからこそ、この頃は夜遅くまで勉強に励んでいる。
そのせいだろう。このところの彼女の寝起きが少々悪くなっているのも事実。それでも習慣になっているメールチェックを忘れることはない。
「あ、由紀子からだ。何の用事かな?」
友人からのメールに慌てて受信ボックスを開く。その内容に目を通した亜紀は、手早く返信メールを作るとポチッと送信ボタンを押していた。
そのまま手早く着替えを済ませると、トントンと軽やかな足取りで階段を下りる。その足で玄関に新聞を取りにいった彼女は、『里見』とかけられた表札の横にある郵便ポストに目をやっていた。
「お母さんったら、また取るの忘れてる。急ぎの手紙だったらどうするんだろう?」
ポストの中に残っている封筒は大きく、どう考えても見落とすはずがない。それなのに残っているのはどういうわけだろう。
もっとも、母親が手紙を取り忘れるということは里見家では日常茶飯事。そのことを知っている亜紀は、半ば呆れた様子で新聞と一緒に封筒を持っていっていた。
「お母さん、おはよう。昨日、ポスト見るの忘れてたの?」
「そんなことないわよ。どうかしたの?」
「うん。新聞と一緒にこれが入ってたもの。こんな大きな封筒見落とすなんて、お母さんらしい」
クスクスと笑いながら、亜紀は母親である夏実に封筒を渡している。娘の声に笑いながら郵便物を受け取った夏実は、差出人の名前にちょっと眉をひそめていた。
「亜紀、あなたはこの名前を見たの?」
「見たけど、知らない名前だもん。お父さんかお母さんの知り合いなの?」
夏実の問いかけに、亜紀はのんびりとした口調で返事をしている。ところが、訊ねたはずの夏実からの応えがない。そのことに首を傾げながら、亜紀はちょこんとテーブルについていた。
そのまま、ポケットに入れていたスマホを取り出すと、またメールのチェックを始めている。そんな娘の姿に、夏実は食卓でそんなことをするな、というようにため息をつくが、本人は気にもしていない。今の彼女は由紀子からの新しいメールに夢中になっているのだった。
「あ、お母さん。由紀子が同じ高校受けようって。それでもいいでしょう?」
「たしかに、そんなこと言ってたわね。でも、友だちが受けるからって同じところでいいの? もっと、ちゃんと考えなきゃいけないって言われなかった?」
「ちゃんと考えてるって。別に流されて同じ高校にしようって言ってるんじゃないもの。そのあたりは娘を信用してほしんだけどな」
「そう? だったら、いいんだけど……でも、そうはならないかもしれないわよ……」
どこか寂しそうな調子で夏実がそう呟いている。しかし、亜紀にそれが聞こえている気配はない。彼女は友人とのメールに夢中になっている。
それでも、何かを言われたような雰囲気を感じたのだろう。スマホをポケットにしまうと、彼女はコクッと首を傾げながら問いかけている。
「お母さん、さっき何か言った?」
「どうせ、聞いてないんでしょう? また、あとでゆっくり話すわ。それより、そんな恰好で風邪ひいちゃダメよ。あなたは受験生なんだから」
「分かってま~す。ね、それよりも朝ごはん、まだ?」
「ほんとにあなたって人は……早く食べたいなら、少しは手伝おうとは思わないの?」
夏実の声に、亜紀は慌てたように椅子から立ち上がっている。そのまま彼女は、夏実が準備をしていた朝食をいそいそとテーブルへと運んでいた。
「あ、お母さん。今日は由紀子と遊びに行くね。さっきのメールで約束したの」
「それはいいけど、大丈夫なの? 油断して、受験に失敗した、なんて言わないでよ」
「大丈夫。明日からはちゃんと勉強するもの。だから、今日くらい、いいでしょう?」
どこか甘えたような亜紀の声に、夏実は思わず笑い出している。セッセと朝食の準備を手伝っているのも、遊びにいくためのゴマすりなのだ。そのことにも気が付いた彼女だが、咎めようとは思っていない。
新年が明けたばかりの里見家は、高校受験を控えた娘がいるにも関わらず、のんびりとした空気が漂っている。そのことを何よりも嬉しいと思っているのが、当の受験生である亜紀。だからこそ、彼女はこの雰囲気を壊すまいと甘えたり手伝いもしたりする。
そんな娘の姿を夏実は愛おしそうにみつめるだけ。だが、その視線が別の方に向けられているのも間違いない。今の彼女は、先ほど亜紀から渡された封筒の中身が気になってしまっている。
もっとも、そこにどんなことが書いてあるのか、彼女はよく知っている。だからだろう。今の夏実の顔には、どこか悩ましげな色しか浮かんではこない。
「ついに、この日がきてしまったのね……」
そんなつぶやきはほんの微かなもの。だからこそ、すぐそばにいる亜紀には聞こえてもいない。そして、今の夏実は明るく手伝う娘の姿を複雑な表情でみつめることしかできなかった。
とはいえ、そのような内心の葛藤を夏実は見事に隠しきっている。それでも、亜紀が由紀子と遊びに出かけた後は、そんな気配りもなくなっているのだろう。彼女の表情には『悩んでいます』という色しか浮かんでいない。そんな彼女の姿に、夫である伸吾が気遣うような声をかけていた。
「夏実、ずいぶんと深刻な顔をしているね。どうかしたのかい?」
まだ年始の休暇中でもある伸吾は、のんびりとした口調で問いかけている。そんな彼の姿に大きく息を吐いた夏実は、先ほどの封筒を手渡していた。
上質な紙で作られているそれは、持った感じもしっかりとしている。パソコンで打ち出された住所に軽く目をやった伸吾は、裏にある差出人の名前をみると、夏実に負けない大きなため息をついていた。
「この名前、見たくもなかったね」
「あなたもそう思う? 私も同じよ。それより、どうして今なのよ。約束はまだ先だわ」
亜紀がいる前では何事もないようにしていたが、今は遠慮がなくなっている。そのことを証明するかのように、彼女の声は感情的になっていく。そんな夏実を落ち着かせようとするかのように、伸吾はそっと彼女の肩に手をおいていた。
「夏実、落ち着かないと。とにかく、中を見てみよう」
「そ、そうね。何も私たちが心配するような内容じゃないかもしれないものね」
伸吾の言葉に応える夏実の声はどこか掠れている。そんな彼女の様子を目にしながら、伸吾はゆっくりと封筒を開いていた。中に入っているのは、どう見ても特別にあつらえたのが分かる紙。
そして、この言葉こそ亜紀の身に起こったことを表現するのにピッタリの言葉はない。もっとも、本人はまだそのことを知る由もない。
ジリジリジリ――
その日も冬の冴え冴えとした朝の空気を破るように、目覚ましの音が響いていた。それにゆっくりと手を伸ばした亜紀は、どこかスッキリしない頭をゆっくりと動かしていた。
今の彼女は中学3年生。まもなくやってくる高校受験は、ある意味で人生の分岐点。それが分かっているからこそ、この頃は夜遅くまで勉強に励んでいる。
そのせいだろう。このところの彼女の寝起きが少々悪くなっているのも事実。それでも習慣になっているメールチェックを忘れることはない。
「あ、由紀子からだ。何の用事かな?」
友人からのメールに慌てて受信ボックスを開く。その内容に目を通した亜紀は、手早く返信メールを作るとポチッと送信ボタンを押していた。
そのまま手早く着替えを済ませると、トントンと軽やかな足取りで階段を下りる。その足で玄関に新聞を取りにいった彼女は、『里見』とかけられた表札の横にある郵便ポストに目をやっていた。
「お母さんったら、また取るの忘れてる。急ぎの手紙だったらどうするんだろう?」
ポストの中に残っている封筒は大きく、どう考えても見落とすはずがない。それなのに残っているのはどういうわけだろう。
もっとも、母親が手紙を取り忘れるということは里見家では日常茶飯事。そのことを知っている亜紀は、半ば呆れた様子で新聞と一緒に封筒を持っていっていた。
「お母さん、おはよう。昨日、ポスト見るの忘れてたの?」
「そんなことないわよ。どうかしたの?」
「うん。新聞と一緒にこれが入ってたもの。こんな大きな封筒見落とすなんて、お母さんらしい」
クスクスと笑いながら、亜紀は母親である夏実に封筒を渡している。娘の声に笑いながら郵便物を受け取った夏実は、差出人の名前にちょっと眉をひそめていた。
「亜紀、あなたはこの名前を見たの?」
「見たけど、知らない名前だもん。お父さんかお母さんの知り合いなの?」
夏実の問いかけに、亜紀はのんびりとした口調で返事をしている。ところが、訊ねたはずの夏実からの応えがない。そのことに首を傾げながら、亜紀はちょこんとテーブルについていた。
そのまま、ポケットに入れていたスマホを取り出すと、またメールのチェックを始めている。そんな娘の姿に、夏実は食卓でそんなことをするな、というようにため息をつくが、本人は気にもしていない。今の彼女は由紀子からの新しいメールに夢中になっているのだった。
「あ、お母さん。由紀子が同じ高校受けようって。それでもいいでしょう?」
「たしかに、そんなこと言ってたわね。でも、友だちが受けるからって同じところでいいの? もっと、ちゃんと考えなきゃいけないって言われなかった?」
「ちゃんと考えてるって。別に流されて同じ高校にしようって言ってるんじゃないもの。そのあたりは娘を信用してほしんだけどな」
「そう? だったら、いいんだけど……でも、そうはならないかもしれないわよ……」
どこか寂しそうな調子で夏実がそう呟いている。しかし、亜紀にそれが聞こえている気配はない。彼女は友人とのメールに夢中になっている。
それでも、何かを言われたような雰囲気を感じたのだろう。スマホをポケットにしまうと、彼女はコクッと首を傾げながら問いかけている。
「お母さん、さっき何か言った?」
「どうせ、聞いてないんでしょう? また、あとでゆっくり話すわ。それより、そんな恰好で風邪ひいちゃダメよ。あなたは受験生なんだから」
「分かってま~す。ね、それよりも朝ごはん、まだ?」
「ほんとにあなたって人は……早く食べたいなら、少しは手伝おうとは思わないの?」
夏実の声に、亜紀は慌てたように椅子から立ち上がっている。そのまま彼女は、夏実が準備をしていた朝食をいそいそとテーブルへと運んでいた。
「あ、お母さん。今日は由紀子と遊びに行くね。さっきのメールで約束したの」
「それはいいけど、大丈夫なの? 油断して、受験に失敗した、なんて言わないでよ」
「大丈夫。明日からはちゃんと勉強するもの。だから、今日くらい、いいでしょう?」
どこか甘えたような亜紀の声に、夏実は思わず笑い出している。セッセと朝食の準備を手伝っているのも、遊びにいくためのゴマすりなのだ。そのことにも気が付いた彼女だが、咎めようとは思っていない。
新年が明けたばかりの里見家は、高校受験を控えた娘がいるにも関わらず、のんびりとした空気が漂っている。そのことを何よりも嬉しいと思っているのが、当の受験生である亜紀。だからこそ、彼女はこの雰囲気を壊すまいと甘えたり手伝いもしたりする。
そんな娘の姿を夏実は愛おしそうにみつめるだけ。だが、その視線が別の方に向けられているのも間違いない。今の彼女は、先ほど亜紀から渡された封筒の中身が気になってしまっている。
もっとも、そこにどんなことが書いてあるのか、彼女はよく知っている。だからだろう。今の夏実の顔には、どこか悩ましげな色しか浮かんではこない。
「ついに、この日がきてしまったのね……」
そんなつぶやきはほんの微かなもの。だからこそ、すぐそばにいる亜紀には聞こえてもいない。そして、今の夏実は明るく手伝う娘の姿を複雑な表情でみつめることしかできなかった。
とはいえ、そのような内心の葛藤を夏実は見事に隠しきっている。それでも、亜紀が由紀子と遊びに出かけた後は、そんな気配りもなくなっているのだろう。彼女の表情には『悩んでいます』という色しか浮かんでいない。そんな彼女の姿に、夫である伸吾が気遣うような声をかけていた。
「夏実、ずいぶんと深刻な顔をしているね。どうかしたのかい?」
まだ年始の休暇中でもある伸吾は、のんびりとした口調で問いかけている。そんな彼の姿に大きく息を吐いた夏実は、先ほどの封筒を手渡していた。
上質な紙で作られているそれは、持った感じもしっかりとしている。パソコンで打ち出された住所に軽く目をやった伸吾は、裏にある差出人の名前をみると、夏実に負けない大きなため息をついていた。
「この名前、見たくもなかったね」
「あなたもそう思う? 私も同じよ。それより、どうして今なのよ。約束はまだ先だわ」
亜紀がいる前では何事もないようにしていたが、今は遠慮がなくなっている。そのことを証明するかのように、彼女の声は感情的になっていく。そんな夏実を落ち着かせようとするかのように、伸吾はそっと彼女の肩に手をおいていた。
「夏実、落ち着かないと。とにかく、中を見てみよう」
「そ、そうね。何も私たちが心配するような内容じゃないかもしれないものね」
伸吾の言葉に応える夏実の声はどこか掠れている。そんな彼女の様子を目にしながら、伸吾はゆっくりと封筒を開いていた。中に入っているのは、どう見ても特別にあつらえたのが分かる紙。
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