「Sketch」
Vol.1
八神姫
「この愚か者」
御簾の中から苦々しげにそう言っている男。そんな彼の目には、かしこまって頭を垂れている女の姿が映っていた。
「このような失態をさらして、よく、おめおめと帰ってくることができたものだな」
「殿、申し訳ありません」
頭を垂れ、平伏している女の口から微かに詫びをいれる声が聞こえている。しかし、その姿勢にはどこかぎこちなさもいえるような感じがしないでもない。何かを必死でこらえているようにもみえる姿。そんな女の様子にばさっと御簾を跳ね上げ近寄った男は、うなだれた細いうなじを力まかせに引き上げていた。
「何をすればいいのかはわかっているのだろう。いつまでもここにいても埒があくわけではなし。お前ができることをやってくるのだな」
「殿様、そのようにおっしゃられずとも。姫も十分にそのことはご承知でございます」
自分の前にいるものではなく、その後ろに控えているものがそのようにいったことに、男は気分を害したようだった。自分が答えを求めているのはお前ではない、というような冷ややかな視線をその相手に向けている。
「殿、必ず、取り戻してまいります。それゆえ、しばし、お時間をいただけませんでしょうか」
「良くぞ言った。では、吉報をまっているからな。だが、時間もあまりないぞ。そのことは忘れるでない」
そういうなり、男は相手のことなど忘れたかのようにその場を後にしている。残された女はようやくほっとしたかのような表情を浮かべているが、その額には脂汗が浮かんでいる。
「姫、お加減がまだよろしくないのではございませんか」
心配したような声で、自分に近寄ってくる相手をねめつけるような目で女は見据えている。彼女の具合がどこか悪いのは間違いがないことだろう。どんどんと顔色が悪くなり、ますます額の脂汗も酷くなっている。
「心配することはない。それよりも、例のものはどこにいるのか調べてきてあるだろうね」
「それは、仰せのとおりに。しかし、そのお体でお出かけになられるのですか。無茶というものです」
「殿があのように仰せなのです。急がなくてはなりません。何よりも、アレが主上の目に触れることがあってはなりません」
そういうなり立ち上がった女ではあるが、やはりどこか具合が悪いのだろう。足元がふらつきかけている。その体を近くの柱にあずけようとしているのだが、左手の方が柱に近いにもかかわらず、あえて右手で己の体を支えるようにしている。そんな彼女の様子をみていた相手は痛ましそうな顔で声をかけていた。
「姫も、あのような時間にお一人で外を歩かれるようなことをなさいますから。誰か供のものをつけてさえおれば、このような目にあわれずともすんでいたでしょうに」
「もうすんだこと。いつまでも、愚痴のように言うでない。しかし、妾のことをよりにもよってあのようなものだと思うとは……」
そう呟くと、彼女は自分の手元をじっと凝視している。しかし、そこにあるべきものが一つかけているのはどういうことなのだろうか。本来であれば、十二単の左の袖口から見えているはずの指が見えている様子がないのだ。
「このままのなりでは、街中を歩くことなどできようはずもない。牛車を用意するようにいいつけてきておくれ」
少し、息が荒くなったような感じがしないでもないが、彼女は出かけようとしているようだった。そして、それを止めることができないと感じているのか、いいつけられた相手も素直に、その場から立ち去っている。ようやく、一人になることのできた女は、ため息をつきながら、部屋の外、抜けるような青空を見上げていた。
「妾にこのような思いをさせた報いは受けてもらわねばならぬな」
一体、何をそこまで思いつめているのかわからない。しかし、あまり体調もすぐれない様子であるにもかかわらず、出かけようとするにはなにかよほどの事情があるのだろう。屋敷の者も止めることができないとわかっているのか、黙って彼女が牛車に乗るのを見送っている。
そして、ゆれる牛車の中で女は何事かを考えている。その顔を隠すようにかざされている檜扇。さほど重いものではないが、それなりの大きさであるそれは、片手で持てるものではないのだろう。いつもの習慣からか、左手でそれを支えようとした女の顔色が、一瞬にして変わっていた。なぜなら、扇は支えられることなく、カタリと下に落ちているからだ。
「あの下衆が。妾のことをあのような下劣な輩と混同するとは、不埒にもほどがある。あのような輩が大手を振って歩いておるから、我々八神の者は苦労が絶えぬ」
苦々しげに吐き出される言葉。それは十二単の衣をまとった姫が口にするとは思えない、呪詛の言葉。しかし、その場には誰もおらず、彼女の言葉を聞きとがめるものがいるはずもない。やがて、女を乗せた牛車はある家の前で止まっていた。
そこはどちらかというとごくごくありふれた感じのする家。ただ、どういうわけか人々が群がって家の中を覗き込んでいるのが不思議といえば不思議なのだろう。しかし、その人々も家の前に牛車が止まったのをみると、蜘蛛の子を散らすように一目散に姿を消している。彼らにとって、牛車に乗るような相手というのが、自分たちとは関わりをもつようなことがあるはずのない人種だということをわかっているような行動。そして、女はゆっくりとした足取りで、牛車から降りているのだった。
「姫、いかがなされますか」
「妾が一人で参る。お前たちはここで待っておいで」
「しかし、そうは申されましても……」
「聞こえなんだか。妾が一人で参る。その方が相手も安心するだろうし」
そういうなり、女は扇で顔を隠すようにして、家の中へと入っていっていた。彼女の歩いた後には、伽羅の香りがそこはかとなく漂い、その身分が低からぬということを物語っている。そして、家の中にいた人物は伽羅の香りとともにあらわれた相手の姿をみると、思わず平伏しているようだった。その前におかれているのは白木の三方。ただし、そこにのっているのは、そこにのせるのが正しいのかと思い、目を背けてしまいたくなるようなもの。
「こなたか。昨夜、都に出たという鬼の腕を取ったという武士は」
屋敷にいたときとはまるで違う威圧感さえ感じられる気配をまとい、口を開く女。それに対して、男はただ小さくなっているだけのようにも見える。
「はい。左様でございます。昨夜のこと、夜更けに都大路を歩いておりましたところ、身なりの卑しからぬ女が一人でおりました。いかにここが主上のおわす都とはいえ、女が一人でいるのは危ないと思い、声をかけました」
「そうだったのか。それは大儀であったの。主上もこなたのようなものがそのような心がけでおるのを喜ばれることであろう」
鷹揚に声をかける女であるが、その目が三方の上にあるものからそらされることはないようだった。しかし、平伏しているためか、男はそのようなことには気もついてはいない。
「ただ、その女は夜更けだというのに一人で通りを歩いておりましたので、どこかおかしいと用心しておりました。すると、急にその女はわたしのほうを振り向いて、笑い出したのです。それは、どう考えても人のものとは思えないような笑い声で、思わず、腰のものでその女に切りつけました」
男の話に女はじっと耳を傾けたままでいる。そして、男の言葉が途切れたとき、部屋の中はどこか重苦しいような沈黙が流れているようだった。
「で、その時に切り落としたものが、これだというのか」
ようやく、女が口を開く。それを待っていたかのように、男は言葉を続けていた。
「左様でございます。そして、これこそ主上がお心をいためておられた鬼の腕と思いまして、このように持ち帰った次第でございます」
「よくやったの。褒めてつかわす。ところで、こなたはその鬼とやらの顔を覚えておるのか」
女のその声に、男は何を言うのだろうかというように顔を上げていた。それにあわせるかのように、女は自分の顔を隠していた扇をはずし、男に己の顔をさらしている。
「そ、その顔は……」
女の顔をみた男の恐怖に満ちた声が部屋の中に響いている。しかし、女はそのようなことは意にも介さず、三方の上におかれた上を取り上げている。
「これは返してもらう。これは鬼のものではないゆえに」
「ど、どうして……お、お前は夕べの鬼ではないのか……」
「笑止。妾をそのような下劣な輩と一緒にするでない」
そういうなり、女は十二単の左の袖口をめくり上げると、三方の上にあった腕を傷口にあてている。すると、不思議なことに、腕はみるみるうちに生気を取り戻し、何事もなかったかのように女の腕になっている。
「そのようなことができるのが鬼ではないというのか」
「妾は八神に連なるもの。八神は神の分かれであり鬼であろうはずがない。もっとも、禁裏というところは我ら八神の者でも鬼とならざるを得ない場ではあるがな」
そういうなり、にっと笑ったその姿は神というよりはまさしく鬼と表現した方がいいものなのだろうか。男は自分の見たことが信じることができぬような顔をして呆然としている。そして、ようやく己の腕を取り返した女は勝ち誇ったような顔で男を見下ろしている。
「主上に妾が鬼だと告げる勇気があるか。いくらこなたがただの武士とは言っても八神の名くらいは知っておろう。主上は信じないであろうの。おぬしは、これを持っていたことで命拾いをしたと思っておおき」
そういい捨てるなり、女は十二単の裾を引きずると、外で待っている牛車に乗り込んでいた。残された男はというと、どこか呆けたような表情のまま、女が去っていくのを見送るしかないようだった。
―了―
御簾の中から苦々しげにそう言っている男。そんな彼の目には、かしこまって頭を垂れている女の姿が映っていた。
「このような失態をさらして、よく、おめおめと帰ってくることができたものだな」
「殿、申し訳ありません」
頭を垂れ、平伏している女の口から微かに詫びをいれる声が聞こえている。しかし、その姿勢にはどこかぎこちなさもいえるような感じがしないでもない。何かを必死でこらえているようにもみえる姿。そんな女の様子にばさっと御簾を跳ね上げ近寄った男は、うなだれた細いうなじを力まかせに引き上げていた。
「何をすればいいのかはわかっているのだろう。いつまでもここにいても埒があくわけではなし。お前ができることをやってくるのだな」
「殿様、そのようにおっしゃられずとも。姫も十分にそのことはご承知でございます」
自分の前にいるものではなく、その後ろに控えているものがそのようにいったことに、男は気分を害したようだった。自分が答えを求めているのはお前ではない、というような冷ややかな視線をその相手に向けている。
「殿、必ず、取り戻してまいります。それゆえ、しばし、お時間をいただけませんでしょうか」
「良くぞ言った。では、吉報をまっているからな。だが、時間もあまりないぞ。そのことは忘れるでない」
そういうなり、男は相手のことなど忘れたかのようにその場を後にしている。残された女はようやくほっとしたかのような表情を浮かべているが、その額には脂汗が浮かんでいる。
「姫、お加減がまだよろしくないのではございませんか」
心配したような声で、自分に近寄ってくる相手をねめつけるような目で女は見据えている。彼女の具合がどこか悪いのは間違いがないことだろう。どんどんと顔色が悪くなり、ますます額の脂汗も酷くなっている。
「心配することはない。それよりも、例のものはどこにいるのか調べてきてあるだろうね」
「それは、仰せのとおりに。しかし、そのお体でお出かけになられるのですか。無茶というものです」
「殿があのように仰せなのです。急がなくてはなりません。何よりも、アレが主上の目に触れることがあってはなりません」
そういうなり立ち上がった女ではあるが、やはりどこか具合が悪いのだろう。足元がふらつきかけている。その体を近くの柱にあずけようとしているのだが、左手の方が柱に近いにもかかわらず、あえて右手で己の体を支えるようにしている。そんな彼女の様子をみていた相手は痛ましそうな顔で声をかけていた。
「姫も、あのような時間にお一人で外を歩かれるようなことをなさいますから。誰か供のものをつけてさえおれば、このような目にあわれずともすんでいたでしょうに」
「もうすんだこと。いつまでも、愚痴のように言うでない。しかし、妾のことをよりにもよってあのようなものだと思うとは……」
そう呟くと、彼女は自分の手元をじっと凝視している。しかし、そこにあるべきものが一つかけているのはどういうことなのだろうか。本来であれば、十二単の左の袖口から見えているはずの指が見えている様子がないのだ。
「このままのなりでは、街中を歩くことなどできようはずもない。牛車を用意するようにいいつけてきておくれ」
少し、息が荒くなったような感じがしないでもないが、彼女は出かけようとしているようだった。そして、それを止めることができないと感じているのか、いいつけられた相手も素直に、その場から立ち去っている。ようやく、一人になることのできた女は、ため息をつきながら、部屋の外、抜けるような青空を見上げていた。
「妾にこのような思いをさせた報いは受けてもらわねばならぬな」
一体、何をそこまで思いつめているのかわからない。しかし、あまり体調もすぐれない様子であるにもかかわらず、出かけようとするにはなにかよほどの事情があるのだろう。屋敷の者も止めることができないとわかっているのか、黙って彼女が牛車に乗るのを見送っている。
そして、ゆれる牛車の中で女は何事かを考えている。その顔を隠すようにかざされている檜扇。さほど重いものではないが、それなりの大きさであるそれは、片手で持てるものではないのだろう。いつもの習慣からか、左手でそれを支えようとした女の顔色が、一瞬にして変わっていた。なぜなら、扇は支えられることなく、カタリと下に落ちているからだ。
「あの下衆が。妾のことをあのような下劣な輩と混同するとは、不埒にもほどがある。あのような輩が大手を振って歩いておるから、我々八神の者は苦労が絶えぬ」
苦々しげに吐き出される言葉。それは十二単の衣をまとった姫が口にするとは思えない、呪詛の言葉。しかし、その場には誰もおらず、彼女の言葉を聞きとがめるものがいるはずもない。やがて、女を乗せた牛車はある家の前で止まっていた。
そこはどちらかというとごくごくありふれた感じのする家。ただ、どういうわけか人々が群がって家の中を覗き込んでいるのが不思議といえば不思議なのだろう。しかし、その人々も家の前に牛車が止まったのをみると、蜘蛛の子を散らすように一目散に姿を消している。彼らにとって、牛車に乗るような相手というのが、自分たちとは関わりをもつようなことがあるはずのない人種だということをわかっているような行動。そして、女はゆっくりとした足取りで、牛車から降りているのだった。
「姫、いかがなされますか」
「妾が一人で参る。お前たちはここで待っておいで」
「しかし、そうは申されましても……」
「聞こえなんだか。妾が一人で参る。その方が相手も安心するだろうし」
そういうなり、女は扇で顔を隠すようにして、家の中へと入っていっていた。彼女の歩いた後には、伽羅の香りがそこはかとなく漂い、その身分が低からぬということを物語っている。そして、家の中にいた人物は伽羅の香りとともにあらわれた相手の姿をみると、思わず平伏しているようだった。その前におかれているのは白木の三方。ただし、そこにのっているのは、そこにのせるのが正しいのかと思い、目を背けてしまいたくなるようなもの。
「こなたか。昨夜、都に出たという鬼の腕を取ったという武士は」
屋敷にいたときとはまるで違う威圧感さえ感じられる気配をまとい、口を開く女。それに対して、男はただ小さくなっているだけのようにも見える。
「はい。左様でございます。昨夜のこと、夜更けに都大路を歩いておりましたところ、身なりの卑しからぬ女が一人でおりました。いかにここが主上のおわす都とはいえ、女が一人でいるのは危ないと思い、声をかけました」
「そうだったのか。それは大儀であったの。主上もこなたのようなものがそのような心がけでおるのを喜ばれることであろう」
鷹揚に声をかける女であるが、その目が三方の上にあるものからそらされることはないようだった。しかし、平伏しているためか、男はそのようなことには気もついてはいない。
「ただ、その女は夜更けだというのに一人で通りを歩いておりましたので、どこかおかしいと用心しておりました。すると、急にその女はわたしのほうを振り向いて、笑い出したのです。それは、どう考えても人のものとは思えないような笑い声で、思わず、腰のものでその女に切りつけました」
男の話に女はじっと耳を傾けたままでいる。そして、男の言葉が途切れたとき、部屋の中はどこか重苦しいような沈黙が流れているようだった。
「で、その時に切り落としたものが、これだというのか」
ようやく、女が口を開く。それを待っていたかのように、男は言葉を続けていた。
「左様でございます。そして、これこそ主上がお心をいためておられた鬼の腕と思いまして、このように持ち帰った次第でございます」
「よくやったの。褒めてつかわす。ところで、こなたはその鬼とやらの顔を覚えておるのか」
女のその声に、男は何を言うのだろうかというように顔を上げていた。それにあわせるかのように、女は自分の顔を隠していた扇をはずし、男に己の顔をさらしている。
「そ、その顔は……」
女の顔をみた男の恐怖に満ちた声が部屋の中に響いている。しかし、女はそのようなことは意にも介さず、三方の上におかれた上を取り上げている。
「これは返してもらう。これは鬼のものではないゆえに」
「ど、どうして……お、お前は夕べの鬼ではないのか……」
「笑止。妾をそのような下劣な輩と一緒にするでない」
そういうなり、女は十二単の左の袖口をめくり上げると、三方の上にあった腕を傷口にあてている。すると、不思議なことに、腕はみるみるうちに生気を取り戻し、何事もなかったかのように女の腕になっている。
「そのようなことができるのが鬼ではないというのか」
「妾は八神に連なるもの。八神は神の分かれであり鬼であろうはずがない。もっとも、禁裏というところは我ら八神の者でも鬼とならざるを得ない場ではあるがな」
そういうなり、にっと笑ったその姿は神というよりはまさしく鬼と表現した方がいいものなのだろうか。男は自分の見たことが信じることができぬような顔をして呆然としている。そして、ようやく己の腕を取り返した女は勝ち誇ったような顔で男を見下ろしている。
「主上に妾が鬼だと告げる勇気があるか。いくらこなたがただの武士とは言っても八神の名くらいは知っておろう。主上は信じないであろうの。おぬしは、これを持っていたことで命拾いをしたと思っておおき」
そういい捨てるなり、女は十二単の裾を引きずると、外で待っている牛車に乗り込んでいた。残された男はというと、どこか呆けたような表情のまま、女が去っていくのを見送るしかないようだった。
―了―
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